虻田地区の文化財



わが洞爺湖町は多くの先人の偉業により今日があります。
現代に生きる私たちは、その慣わしなど多くのことを次世代に伝え、いつまでも風化させないことが大切なことです。
そのための事業は、決して華やかでいつも楽しいものとは限りませんが、多くの皆様に知っていただきたい想いで企画しております。
ぜひご参加ください。




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プロビデンス号来航の地



寛政8年(1796年)、イギリスの探検家ブロートンが率いるプロビデンス号が虻田沖(洞爺湖町入江)に来航し、碇泊しました。プロビデンス号の乗組員は、ボートでホロナイ川(洞爺湖町清水)の河口に上陸し、飲料水を汲み、山から薪(まき)を伐りだして帰船しました。船長のブロートンは、噴火湾(内浦湾)の命名者として歴史にその名をとどめています。






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和田屋茂兵衛墓碑



有珠山の文政噴火(1822年)により発生した火砕流により、103名もの方々が犠牲になりました。その中には、牧士頭村田卯五郎父子や場所請負人和田屋茂兵衛も含まれています。この墓碑は、茂兵衛の息子の茂吉が建てたと伝えられています。






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入江馬頭観世音碑



北海道有形文化財指定(平成4331日)
文化21805)年75日、有珠虻田牧場開場の日に合わせて建立されました。願主には、牧場開設の功労者である下役福井政之助と牧士頭村田卯五郎の名前が刻まれています。碑は、当時の松前藩領以北の中では、最も古いものとされています。官営牧場の経営、馬産史を知る上でとても貴重です。






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大磯馬頭観世音碑



文政5年(1822)年、有珠山の噴火によって、牧士の村田父子をはじめ、多くの人命が失われました。また、このときに牧馬も犠牲になったと伝えられています。この3年後、有珠・虻田牧場富川牧の牧士、2代目田畑小太郎(長太郎)は、大磯に「観世音」碑を建立します。これは、有珠山噴火という惨事や崖からの転落によって失われた馬の供養と父母(初代小太郎とその妻、それぞれ文政5年と文政6年没)の追善供養を合わせた鎮魂の祈りのため、あえて「馬頭」をつけず、「観世音」としたものと考えられます。
(洞爺湖町指定有形文化財 昭和55年10月3日)






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白井坂碑



大正13年(1924年)に建てられました。虻田第二小学校でアイヌの教育に精魂を注いだ白井柳治郎が通っていた坂を「白井坂」と命名し、村人たちが永年の苦労に感謝するために記念碑が建てられました。







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二十三夜塔



大正元年(1912年)、この地に入植した人たちが建てたもの。「月待(つきまち)行事」として、十五夜に代表される特定の月齢の夜、仲間が集まって飲食をしたり、御経を唱えて月を拝んで、悪霊を追い払う行事が行われていました。その中で、特に普及したのが二十三夜行事と言われています。この二十三夜塔には「右になるか(現在の洞爺湖町成香)、左べんべ(現在の豊浦町)」と刻まれていて、道標としての役割もあります。